“犬バカ殿様”徳川綱吉の「生類憐みの令」が与えた、食文化への影響とは!?

犬公方と呼ばれた徳川綱吉の評価が変わる?生類憐みの令は現代の日本の食文化、さらには日本人の道徳心の根底へ繋がっていた。綱吉とはどんな人物?「生類憐みの令」の本来の意味は?現代に根付く綱吉の思想とは…?綱吉がもたらした現代社会と食文化への影響について紹介します。

こんにちは。
今回は愛犬家の私、名古屋のカネコが、「犬」にまつわるお話をご紹介したいと思います。

「愛犬家」といえばそうですね、犬公方とも呼ばれていた江戸幕府5代将軍・徳川綱吉とくがわつなよしさんを思い浮かべる方も多いのではないかと思います。

綱吉さんと、綱吉が制定した生類憐しょうるいあわれみの令がもたらした現代社会・そして食文化への影響についてご説明していきましょう。


「生類憐みの令」で有名な徳川綱吉とはどんな人物?

綱吉といえば犬を始めとした動物への偏愛が過ぎた異常人格者であるというのが、なんとなくのイメージではないでしょうか。いわゆる犬バカですね。

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たとえば、東北で5万人もの死者を出したと言われる元禄げんろくの大飢饉  だいききん(1695〜1696年)が起きている最中、中野の住民を強制退去させて16万坪もの広大な敷地に犬小屋を建てて10万匹以上の野犬を保護し、犬1匹あたり米3合、味噌、干しイワシを与えるなど、異常さは十分に見て取れます。


この飢饉の際に害獣を殺すこともできなかったことから、東北の民衆の恨みは相当なものだったでしょう。犬を特に保護した理由として諸説ありますが、彼自身が戌年生まれだったためというのが有名です。


綱吉の治世には1701年に「忠臣蔵ちゅうしんぐら」の題材である、赤穂あこう事件(※1)が発生したとされています。


仇討あだうちを成し遂げ、武士の鑑となった赤穂浪士達に切腹を命じたことで、綱吉のイメージは悪くなりました。さらに、水戸黄門こと徳川光圀とくがわみつくにからも、生類憐みの令に対する抗議として犬の皮20枚を送りつけられる逸話(後世の創出とも)も残っており、最高の悪役っぷりなのです。


ですが、近年ではこの評価が変わりつつあります。


綱吉が将軍になったのは江戸時代初期の1680年。この時代は太平の世になったとはいえ、戦国時代の風習、習慣が色濃く残っていた時代であり、人々の「生」に対する認識は現在とはかけ離れていたようです。


たとえば、農民の家では食べるものが無くなれば老人や子供を捨ててしまうし、旅人が宿に宿泊中に発病でもした際には当たり前のように追い出す、動物は下級武士の試し切りの道具にされるなど、日々「殺生」が身近であった世の中でした。


これを憂いた綱吉は「殺生を慎め」といった訓令的なお触れを出します。ですが、その後も一向に違反者が減らないために、「犬愛護令」「鳥獣保護令」「病人保護令」「捨子捨牛馬禁止令」「鉄砲統制令」などといった数々のお触れを出していったのです。
「生類憐みの令」とは一文の律令ではなく、以上の複数の内容を含む包括的な政策体系の総称なのです。


「生類憐みの令」の本来の意味と、日本の食文化の移り変わり

「生類憐みの令」が犬愛護令としての機能ばかりが特筆される理由として、触れざるを得ないのが日本における犬食文化です。

中国や韓国では現在にも続く食文化ですが、われわれ日本人は「犬を食べるなんてかわいそうだ」、「野蛮だ」と思ってしまいますね。ですがアジアでは、昔から犬は貴重なタンパク源としての認識が広く伝わっていたようです。


当時の日本でも、犬食は好まれていたわけではないものの、日常の中では散見されていました。


特に問題視されていたのは「かぶき者」(今でいうヤンキー的な人たち)と呼ばれる者たちです。幕府の権威に反抗することを目的として、武士の飼い犬を勝手に殺して食してしまうということがしばしば行われており、幕府も社会のモラルが乱れることを危惧していました。


将軍である綱吉も常々かぶき者の廃絶に頭を悩ませていたようです。


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※かぶき者の一例

犬愛護令に背いた行いは厳罰をもって対処するようにお触れを出しましたが、犬に限らず、捨子や捨牛馬、鳥獣も対しても同様に扱うことで、「生」を軽んじて無駄に殺生を行うものは死罪という、これまで当たり前に行われてきたことが極刑に処せられることになりました。
このことが当時の人々からは異質であったため、恐怖政治と受け取られていったようです。


こうして、犬だけでなく鳥獣にまで殺生が禁止されていったことで、日本の食文化は大きく肉食から離れ、米食をより尊ぶようになり、水産業の発展へとつながっていきました。


江戸の庶民は1日3食のうち、昼食を一番重要視しており、おかずが出るのは昼のみで、朝夕はご飯とみそ汁のみ、もしくはお茶漬けのようにして食べていました。
また、農村ではひえやあわ、もしくは玄米などを食していた一方で、江戸では庶民でも白米を口にしており、これが江戸である誇りにもつながっていたようで、江戸庶民は白米を1日5合も食べていたという記録も残っています。


このため、ビタミンB1が不足して脚気かっけ(※2)を患う人が多く、歴代将軍たちの中でも数名が脚気でなくなったといわれているほど。何事もバランスが重要ということですね。

肉食離れをした江戸の人々は、どんなものを食べていた?

この後、肉食から離れた江戸では徐々に外食文化が発達し始めました。外食と言っても、ほとんどが屋台での移動販売で、ウナギの蒲焼(の原型といわれる串料理)、江戸前寿司やてんぷら、ソバなどが盛んに食べられるようになっていきます。これらはファストフードとしてせわしない江戸っ子の心を掴んでいきました。

f:id:tentsu_media:20161020123901j:plain※江戸時代後期のてんぷら屋台/深川江戸資料館(出典:Wikipedia)


突然ですが当時の江戸の寿司屋台で最も値段の張るネタはなんだと思いますか?
江戸の雑然とした街をご想像いただくことがヒントになるかもしれません。


正解は、今では当たり前のように私たちの食卓にも並んでいる「卵焼き」です。
当時の江戸は時代劇にも見られるように、多くの長屋が密集していました。人口密度が非常に高いエリアだったため、江戸の町中では鶏を飼育することは難しく、郊外での飼育に限られていたようです。
これに加え、冷蔵庫も物流網も卵を保護する容器も存在しておらず、鮮度の良い状態で割らずに遠距離を運ぶには大変な苦労があり、他のネタに比べ1.5倍から2倍ほどの値付けだったのです。


f:id:tentsu_media:20161020125659j:plain※江戸時代の寿司屋台/江戸東京博物館


話を戻しますが、こうして江戸での犬食は忌み嫌われるようになり、江戸前の鮮魚や練馬大根や小松菜などといった江戸野菜を中心とした食生活に変化をしていきました。


さらに江戸時代後期になると醤油をはじめとした各種調味料が普及していったことにより、調理方法が複雑化。それまでの外食人気に拍車をかけていきます。


また、当時はまきの値段が上昇し続けたため、自宅で火をおこすよりも、外食で済ませた方が経済的だったことや、薪の残り火が火事の原因ともなることも外食人気の要因ともなったようです。


大きく言えば、今の私たちの食文化の基本は、綱吉の「生類憐みの令」が大きく影響しているとも言えるということですね。




食文化以外でも現代にも根付く、綱吉の思想

冒頭に述べたように、綱吉は歴代の将軍の中でも群を抜いてバカ殿様的な扱いを受けるようになりました。

6代将軍家宜は、綱吉の死後、葬儀も終わらぬうちに生類憐みの令を撤廃したといわれています。これは行き過ぎた犬の保護を撤廃したということであり、元来の目的であった、無駄な殺生を禁じ、生き物を慈しむ精神は、現在までつながる日本人の道徳心の根底となっているのではないでしょうか。



また、犬や飼育している牛馬、老人や妊婦、銃火器を登録制にして徹底した管理を行うことで勝手な殺生を防いでいた綱吉ですが、これも現在まで続く福祉制度の基礎となっているのです。


アメリカにこういった登録制度ができたのは、日本に遅れること200年のことでした。


そもそも綱吉は父である3代将軍家光から英才教育を施されており、特に儒学をよく学んだそうです。これを基に「徳を重んじる文治政治」を行い、それまで戦士だった武士たちを官僚と言えるまでに育て上げました。後の明治期における早期の近代化にまで影響を及ぼしたとも考えられています。


過剰な犬愛護令を基に暗愚とするには惜しい将軍様ではありますが、良い法令でも限度をこえると悪法になりかねないということですね。
ですが、戦国の世の殺伐とした雰囲気を断ち切り、江戸前期に「生きることが当たり前」の価値観を広め、老人・子供から牛馬に至るまで生を慈しむ精神を根付かせ、日本人の道徳心を育んだ綱吉さんを再評価してもいいのではないでしょうか。


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※徳川綱吉(徳川美術館蔵)


私も犬は大好きです。


最後に我が家のワンちゃんをご紹介して結びとさせていただきます。


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天使ですね。



(※1)江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討った仇討ち事件のこと
(※2)ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患のこと

名古屋のカネコ

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