強い者だけが生き残る!戦国時代を始めた武将・北条早雲に学ぶ成功術

小田原北条家の祖・北条早雲は、初めて戦国大名となった人物で、その後歴史に名を遺した織田信長や武田信玄、徳川家康などの名だたる武将がその戦術を手本にしたと言われています。 現代の皆様に、戦国の世の幕を切って落とした風雲児『北条早雲』の成功術をご紹介します。

.皆さんこんにちは、店通ライターのmomoです。
突然ですが、私は先日小田原城に行ってきました。神奈川県小田原市にある小田原城、関東にお住いの方にはなじみのあるお城ですよね。


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現在の小田原城跡公園は小田原城の本丸を中心に整備され、天守閣は昭和35年に小田原市市制20周年記念事業として復興されたものです。平成の大改修を終えた小田原城天守閣はとてもきれいで、見る者を圧倒します。


小田原城が初めて築城されたのは15世紀の中ごろと言われており、16世紀初頭から小田原北条氏が居城としていました。この時代、関東支配の中心拠点として拡張整備が進められ、小田原城は日本最大の中世城郭へと発展していきます。
小田原北条氏4代目当主・北条氏政の時世には、難攻不落・無敵の城と言われ、上杉謙信(1560年小田原城の戦い)や武田信玄(1569年三増峠の戦い)の猛攻にも耐えました。
江戸時代には、徳川家康の家臣・大久保氏が城主となり、関東地方防御の要衝として、幕末まで重要な役割を果たしたのです。


この小田原城を居城としていた小田原北条家は、5代(初代早雲・2代氏綱・3代氏康・4代氏政・5代氏直)100年続いた名門です。
小田原北条家の祖・北条早雲(ほうじょうそううん)は日本史上、初めて戦国大名として登場した人物で、その後歴史に名を遺した織田信長や武田信玄、徳川家康などの名だたる武将がその戦術を手本にしたと言われています。


「企業5年生存率20%」と言われる現代において、起業をお考えの皆様に、強い者だけが生き残る戦国の世の幕を切って落とした風雲児『北条早雲』の成功術をご紹介いたします。



組織を飛び出し、自分の理想の国造りに生きた早雲

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※北条早雲画像(小田原城所蔵)

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった、極悪非道の大泥棒というイメージの強い北条早雲ですが、近年の研究により、素浪人ではなく伊勢盛定の子・伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)だという事が判明しました。伊勢氏は武家の名門・平氏の流れを組む名族で、父・伊勢盛定は室町幕府の要職を務めた高級官僚でした。


早雲が8代将軍足利義政の弟・足利義視に仕えていた時、応仁・文明の乱が起こりました。
応仁・文明の乱とは、将軍足利家の後継問題に端を発し、これに管領の斯波(しば)氏・畠山氏の相続争いが絡んで始まった内戦のことです。
有力守護大名の細川勝元と山名宗全の元に全国各地から集結した軍勢の、国を二分した争いとなりましたが、1467年から約10年にも及んだこの戦いは、主戦場となった京都に壊滅的な打撃を与え、飢饉(ききん)と相まって京都の街には餓死者があふれました。


この悲惨な状況を前に何の手も打たないどころか、私利私欲のためになお戦を繰り返す足利義視に失望した早雲は、義視の元を去り仏門に入ります。
その後、9代将軍足利義尚の申次衆(もうしつぎしゅう)(※1)として政府の要職に復帰した早雲でしたが、応仁・文明の乱の余波が思っていた以上に民衆を苦しめている現状を目の当たりにし、民衆が安心して暮らせる国造りがしたいと考え、足利義尚の元も去り、妹の嫁ぎ先・駿河国の今川家に身を寄せます。


既成概念に囚われない、まったく新しい国造り

今川家においても、今川義忠没後に熾烈(しれつ)な跡目争いが起きましたが、早雲はこの騒動を見事な手腕で収め、その功績が認められ駿河国興国寺城を拝領しました。その後、堀越公方家の家督争いに乗じて伊豆国を平定し、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼から小田原城を攻め取り、相模国を平定します。

次々に国を平定していった早雲でしたが、その戦法はそれまでの常識を覆すものでした。
偽の情報を流して裏切るように仕向けたり、信頼関係を築いておきながら奇襲をかけたり、それまでにない戦い方で勝利しました。
この戦法を見た人たちには、“北条早雲は勝つためならなんでもする極悪非道人”と映りました。


その一方で、早雲には『生かすべきものを生かし、殺すべきものを殺す』という強い思いがあり、それまで当たり前に行われていた戦場における兵士の略奪行為を一切禁止します。これにより戦の度に被害を被っていた農民が疲弊することはなくなりました。


また、早雲は相模国を平定した後、日本で初めて田畑の検地(測量及び収穫量調査)を行います。これにより、曖昧だった石高を正確に把握することができ、検地に基づいた年貢を徴収することによって領民の不公平感がなくなると同時に、安定した収入を確保できるようになりました。


他にも、現在でも会社を経営する上で必要不可欠と言われているモノ・人・情報を自分の元に集めるため、商人が自由に商いができるように城下町を整備しました。こうして集めた情報を分析した上で、情報線を仕掛け、数々の戦に勝利することができたのです。


世間のイメージとは真逆?本当は領民と家臣を大切にする大名だった!

鎌倉から室町期にかけて守護や地頭の権威に頼った領民支配が続いていましたが、農業の生産性向上にともなって領民に経済的ゆとりができると、領民は旧来の支配体制に不満を持つようになりました。

時代の流れを読んだ早雲は、国の主体は領民にあるという信念を掲げ、伊豆国を平定すると年貢の徴収を五公五民から四公六民に下げます。
短期的に見ると税収が減って手元の資金はマイナスになりますが、長期的に見ると、領民の支持を得ることができる上に収入も安定し、集めた資金を軍事に投資して兵力を強化することもできました。


また、早雲は戦場において家臣と食事を共にし、政治は評定衆による合議制を用いて家臣の意見を良く聞きました。
このことにより家臣は『この人(早雲)のためなら命も惜しくない』と団結します。
家臣や国人の裏切りが当たり前の戦国時代において、北条家では家臣の裏切りは皆無に等しく、100年という長きにわたって伊豆・相模国を支配する戦国大名、小田原北条家の礎を築くことができたのです。


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戦国大名として成功を収めた北条早雲から学ぶ経営術

・安定した地位を捨て自らの理想とする国を造る。
・それまでの常識を覆す。
・目先の利益より領民と家臣の幸せを優先させ、その声を聞く。


何事にも、遅すぎるということはない

早雲は人生50年と言われていた戦国時代に88歳まで生きたとする説が有力で、遅咲きの戦国武将として有名です。
世の中を変えるために組織を飛び出したのが56歳の時、
民衆の幸せのために理想の国造りを始めたのが62歳の時、
室町幕府に対し独立宣言をし戦国大名として名乗りを上げたのが87歳の時と言われています。
50歳を過ぎてなお、人々の幸せのために奔走し、理想の国を構築した早雲は、経営や人生において学ぶべきことが多い人物です。

f:id:tentsu_media:20160830120125j:plain※北条早雲 銅像



戦国時代を始めた早雲・終わらせた家康

ちなみに本日9月15日は、1600年に関ヶ原の合戦が行われた日ですね。(※2)
関ヶ原の合戦とは、徳川家康を総大将とする東軍と毛利輝元を総大将とする西軍が美濃国不破郡関ヶ原にて争った天下分け目の大合戦のことです。

この戦に勝利した家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、関ヶ原の合戦から14年後に大坂の陣を仕掛け、豊臣氏を滅ぼします。徳川幕府による統治体制を盤石なものとした家康は、早雲が始めた戦国時代に終わりを告げます。


徳川政権は300年の長きに渡り、天下泰平の世をもたらします。
戦国時代を始めた早雲も、終わらせた家康も、戦のない民衆が安心して暮らせる世の中を作りたいという思いは同じだったのではないでしょうか。

momo



(※1)室町幕府の職名の1つ。将軍御所に参上した者の名や用件などを取り次いだ役。また、その人。
(※2)旧暦の9月15日。






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